─ Web2.0時代のお客様像と継続性という命題
良く言う。「お客様は神様です」と。しかし、本当にそうだろうか。
かの松下幸之助翁は生前、「お客様は神様です」と言われたら「だから、私たちのお客様には殿様になってもらいます」と言い返したという。それは、自社の顧客と一般論のお客様の認識を差別化したようでもある。
先ず、神様は貢ぎ物は受けるが、対価を払わない。対価が御利益であるとしたら話は別かも知れないが、御利益のない神様に貢ぐ信者など、まずいない。一方、殿様は税を取り上げて政を司るが、同時に幕府からは領地の管理責任を問われ、また、貢献があれば褒美を与えていたように、妥当な対価を伴わない召し上げなど叶わなかっただろうと思われる。
諸説・異論もあるだろうが、そう考えると、松下翁にとっては、「対価を得られる対象であってこそ、お客様も自社も継続性が担保できるのだ」という、基本を押さえた上での表現だったのではないだろうか。
Palm OSが唱えた哲学
「ユーザーは自分が本当に必要としているものを知らない」とは、Palm OSの哲学だ。その昔、AppleがNewtonというPDAを出した時、当時のチップなどの性能に対して機能面で欲張ったがために、使い物成らずに廃れた。Palmはその失敗から学んで、マシンに覚えさせなくても良いこと、担わさせる必要のないことは、詰め込まなかった。グラフィティという書き文字が代表的で、一筆書きの要領でアルファベットを書く。これをPalm機器が認識して文字に変換するのだが、アルファベットプラスアルファを機械に覚えさせるよりも、人間が機械が分かる方法で書く術を身につけるほうが簡単だったのだ。かくて、Palmは全世界で膨大なシェアを獲得した。唯一、日本を除いて…。
現代の日本において、あらゆる商いで「お客様は神様です」というのが商売成功の秘訣であるかのような言は、もはや当然のように語られている。あのアスクルも、お客様はなんて身勝手なんだ、と感じつつもその希望を叶え続けることでビジネスを拡大した。しかし、そこには継続性という、担保すべき視点が欠けていないだろうか。
本当に欲しいのは?
お客様の希望 ─ これは、簡略化すれば「良いものを安く」にとどめを刺すだろう。安くて余裕があれば要らないものでも買っておくだろうし、高くても欲しいものならムリをしても買う。消費者心理とは得てしてそういうものだ。しかし、自分は本当は何が欲しいのか。この命題に即答できるお客様が何人いるだろう。
ニーズがある場合、お客様は自分が思い描く品を探す。この動向では、妥協点を探ったり、ブランドによる安心感を求めたりするだろう。ニーズがない場合、そこでは欲や時間軸を加えた損得勘定になる。だがしかし、ニーズとマッチするものがなかったり、或いは自分の欲を満たしてくれるものが何なのかを本当に知っている人が、果たしてどれだけいるだろう。いや、その前に、何をしたいのかという単純な欲望や、どうなって欲しいのか、どうなったらと思い描いているのかという目的すら曖昧模糊としているのではないだろうか。
一度目的を達成しかけた“既存ユーザー”、つまり新規客でない「既に釣った魚」のお客様は、経験から自分が次に欲しいものをもっと良く分かっている筈だ。ある自動車を買った人が次にどんな自動車が欲しいかは、言ってみれば、釣った魚が求める餌。既存ユーザーが自分をしっかり持っていて、自分の個性としてこれしかないと思うなら、定番としてのその商品にいつまでも、改善されつつ存在して欲しいだろう。しかし、一方で、定番の商品が長持ちするなら、買い換え需要が起きない。生産と消費のバランスがあるところで停滞して永続するのなら、それはそれでおそらく良いことなのだろう。だが、実際には、定番になるほど一時期売れた商品なら、その生産規模は莫大であり、必然的に企業として存続するなら、定番化したその商品だけに依って行くことができなくなる。まして、株式を公開して投資を受けていたら、一般投資家が求める短期のリターンにも応えなくてはならず、それだけ長期的なビジョンは描けなくなる。かくて、まだ成熟していない市場が視野にあれば、釣った魚ではなく新規の魚に与える餌で、成功したビジネスモデルを発展させようとする ─ いつかは飽和して行き詰まるとしても。
長期的な視点と継続性の担保
アメリカのリーバイスが株式公開を止めたのは、こうした背景からだった。リーバイスは上場を止めて非公開とし、オーダーメードのジーンズに注力して成長を遂げ続けている。リーバイスのジーンズは定番で市場は飽和しているのだから、逆に、クオリティを守った上で愛好家のニーズに応えていれば、永続性は担保されるのだ。このような、永続性の正反対の端的な例は、日本の行政の単年度主義だ。単年度ごとに入札を繰り返し、その場その場で安い値のついた業者が刹那的に一年間の業務を担う。談合が困難になった今、それは損くじの引き合いのようなケースもあり、業者は、未来のために技術を開発したり設備を整えたりする余力を殺がれる。業務に当たっている間は忙殺され、終わればリストラしざるを得ないジェットコースター経営である。これで経済が疲弊しない筈がない。単年度主義で物事を思考するのは、企業が四半期で物事を判断するのと一緒で、その本体の永続性の担保を自ら捨てているに等しい。長期的ビジョンに立っていないから、永続性が担保されないのだ。
化粧品を例にとれば、お客様が「私はもっと綺麗になりたい」というように単純でしっかりとした目標を持っているなら、商品は売りやすいかも知れない。しかし、それでも、高ければ良いのではなく、肌や体質に合う、合わないといった専門的な事柄と、財布の具合を勘案して、妥協点を探りながら最も目標に近づける選択をすることになる。これが、目標もなく刹那的に目先だけで買い物をするなら、待っているのは破産か皮膚科通いか、はたまた夢見ることも叶わぬ不幸の継続である。お客様は、良い売り子に会うことで、初めて良い気分になり、身の丈だけ財布の紐をゆるめて、少しづつでも自分なりに夢に近づくことができる。
家で言うなら、お客様が「こんな家でこんな風に暮らしたい」という漠然としたビジョンと、細かい生活習慣を合理的にまかなって余裕が生まれるような動線配置などまで気を回したディティール、そして人生の変化まで思いを巡らせるなら、長く暮らせる家が出来る。敷地の四季の自然環境にも配慮するなら、相当快適な家になるだろう。戦後の日本は生活様式までもが大きく変わったから、これまでは寿命の長い家を建てるのは困難だった。しかし、今からなら、ある程度極端な生活様式の変化は起きにくいのではないだろうか。100年、200年といった長期スパンの、本当の意味での文化「的」住宅の時代である。そんな家を建てるのに、単年度主義で計画する人はいない。最低、十年くらいは見越すだろう。子供が独り立ちしたら空き部屋を趣味の部屋にしようとか、子供が結婚したらここを改築すれば二世代住宅だといったように、人は思いを巡らせる。そして、そのビジョンが分かるなら、建築家は自分の仕事を通じて、お客様を幸福にすることができる。
しかし、住宅メーカーは一定の型を商品とする。設計者が予定地に出向くこともなく建てられる家は、決して少なくない。設計料を取るのなら数日間キャンプして環境を肌で感じるくらいしても良いだろうと思うが、そんなことをする設計者は、先ずいない。まして、四季の変化など、これっぽっちも考えない。それでどうして“美しい日本”ができるだろう。さらには、洋室よりも和室が高い固定資産税率が、美しい和建築の文化を滅ぼして行く。節税を優先したければ、和室を作らなければ良なんて、どこに自国の住宅文化を自ら推奨しないような国があるだろうか。そして、文化を失ってゆく民族は幸せだろうか。
幾つか例を挙げてきたが、長期的なビジョンを思い描くことが出来ないお客様に、目先の売り上げのためだけで、明日には不幸のどん底になるような商いを行っていないか。その場は、そりゃあお客様は欲しいと思っていた(とその場では錯覚している)ものを手にしてシアワセそうだろう。だが、明日に待ちかまえているのは地獄だ。再び典型的な例を一つ挙げよう。それは、住宅のゆとり返済。思い出して欲しい。5年なりのゆとり期間という執行猶予が終わったときの地獄を説かず、複利の地獄を提供したのは国であり、住宅公庫だ。彼らは貸し出しノルマを達成できれば良いのであって、その商品が国民の生活をどうするものなのかなど、知ったことではなかったのだろう。
人として、明日への継続性を
欧米には、今現在の実際の経済的課題としても、ウォルマートのように安売りに「ある限度までなら」という前提を置く必要性に気づいた会社がある。地元で雇った社員がより低賃金で働いてくれるのがベストではなく、企業として存続できる程度に低賃金でありながらも、同時に、社員も、ウォルマートで買い物が出来るだけの所得のある人々でなければならない、ということだ。これは、大昔ならフォードI世の自動車産業がそうで、量産によって安く大量に自動車を売る一方で、工員もその車のユーザーになれる賃金を得る。そうでなければ産業は尻すぼみである。価格・売り上げだけを考えても、お客様だけが神様だと思って安売りばかりしているようでは、未来はない。まして、気まぐれに大きく変化する市場に対して受け入れられる商品を作って送り出し続けるには、常に先を実現するための研究が欠かせないし、そのためには、研究資金が必要だ。その研究資金が出てこないような安売りだけの経済では、明日はない。目先の安売り品を得たまでは良いが、翌日には、もともと継続的に欲しかったモノ“そのもの”や“取扱店”が消滅してしまうやも知れないのだ。人々誰もが幸せでい続けるには、先ず、売る側が「お客様は神様だ」などと思わないことだ。PalmOSのユーザー像が示唆するように、お客様とは、本当は自分が何を欲しいのか知らない人だ。知っている人なら、黙って自分でさっさと買って行くし、失敗であっても自分で責任を負うだろう。あぁでもない、こぉでもないと言うお客様のように、往々にして、実は何が欲しいのか知らず、そのくせ、買い損なったと思えば、売った側にその責任を押しつける、なんてことはなさそうだ。だが、お客様を神様だと思ったら最後、適当でないものでも、そうと知りつつ売ってしまう。それは、ちょっと長い目でみたとき、誰一人として決して幸せにはしない。そうではなく、松下翁が宣ったように、殿様になってもらうのが良い。
Web2.0時代の顧客像は、パートナーシップだという。インターネット上で提供される様々な機能が、共同で開発し普及せしめて行くことを可能にし、企業はお客様が本当に求めるものを探り、作りだして行く。つまりは、人として、お客様という人を大事にすることが、ひいては自らを大事にすることにもなる。神様と持ち上げたところで、相手は当然のような顔をする。だが、人として互いに大事にしあえば、そのつながりは広がり、明日が担保される。お客様とて神様ではなく、殿様同様、人なのだから。
Posted by nankyokuguma at 07:53:54. Filed under: General
