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Tuesday, September 13, 2016

日本政府が、2020年には高速道路での自動運転を実現し、2025年ごろには人間が運転に関与しない完全な自動運転車の販売を始める目標を掲げているのは、ご存じの通り。今日 ─ 2013年9月13日、経済産業省がこの目標を前倒しし、市街地などの専用レーンでのバスの自動運転にいたっては、2020年より前に始めたいとしている、と報じられた。

実は、自動運転になって行くのは…ものの必然なのだ。なぜなら、今の自動車は人を殺めることも可能な道具であり、使うにあたっての責任が重すぎるから。この考え方は、昔、我が子を亡くされ、自動車免許制度は違憲であると訴えていた方の話をNAVIという雑誌で読んで以来、私の脳裏に刻まれている。人を殺めることもある道具が、ただの操縦する喜びだけのために、制約を受けずに放置されて良いはずはなかったのだ。

自家用車の意味

では、人間から移動に用いる道具を取り上げ得るか。それは、否だ。取り上げられるのは、その技能や認識が人によって大きく違いすぎる、運転という行為。そしてそれでも、移動の道具としての個人所有の自動車は残り、決して、公共交通機関やライドシェアリング、カーシェアリングなどばかりになることはないだろう。

人は、自動車を「思った時に、望んだ区間を、好きなように移動する」ために用いる。「いつでも、どこへでも、どのようにでも」、つまり、ライド・オン・ディマンド。そこには、時刻表に制約されず、予約も要らず、自分以外の要素に左右されることなく、しかも、適度なプライバシーを保って移動が叶うというような、多くの意味が含まれる。しかも、同時にその道具は、自己表現でさえもある。どのメーカーのどんな車を所有しているのか、は、ある程度その人を表してもいるし、カスタマイズするなら、尚更だ。

だから、例えば「自動運転の無人タクシーがあるなら自家用車は要らない」というのは、ちょっと違う。自家用車の中は持ち主の家のような空間であり、望むものが載せられている。自分たちではどうにもならない時間という資源を節約しつつ、有意義に過ごすためには、他人とシェアする要素を削ぎ落とし、自分の勝手が叶うようにすれば良い。そこに、自家用車の存在意義があり、所有する価値がある。公共交通機関の利用は、時刻表通りに動いたとしても、それは他に頼った移動であり、他人と乗り合わせるためにプライバシーが損なわれる。そこまで譲って利用していながら、万一チカンといった冤罪を着せられるなどするリスクさえあるようでは、自動車との比較選択肢ではない。

責任の所在が鍵

自動運転に切り替わって行く過程で、最大の閾になるのは「責任の所在」だろう。自動運転ではない今でも、自家用車の事故で怪我をしたり命を落としたりするのは、例外はあるにせよ自己責任であり、公共交通機関の事故のような「他人のせい」ではない。自動運転化で、さらに運転者が負っている重たい「操縦の責任」がなくなるなら、誰が日常的に自分で運転するだろうか。万一事故を起こしてもメーカーや道路管理者などに責任があるとする自動運転車と、運転者がその責任を担う自動車なら、誰もが前者を選ぶのは自明のこと。ようやく、自動車は文字通りの「自動」車になる。

メカニズムとしては、既に大半の要素は自動化が叶っている。残る課題は最終的なそれらの連携であり、完成までに最も遠いのは、トリガーとなる人間とのインターフェースだろう。ボイスコマンドでは、うっかり口にしたことがとんでもない挙動につながるかも知れない。安易に触れられるスイッチでも、ミスタッチは起きるだろう。さて、どのようなインターフェースが望ましいだろうか。ナイトライダーのナイト2000のように、気の利いたコンピュータ頭脳が搭載されてくれたとしても、人は、時にはそれをうっとおしいと感じるかも知れないから、難しい。

それで世の中、どう変わる

さて、もし人間が責を負わない自動運転車になったとしたら、その後、世の中はどう変わるだろうか。最も変化が大きいのは、飲食業業界かも知れない。まだ酒酔い運転に世が寛容だった時代、車で乗り付けて呑むという人たちは、決して少なくなかった。呑んだら乗るな、が当然でありながら、人はリスクを知りつつ寛容であり続けた。その行為が厳しく禁止されて以後、飲食店業界、特に、呑むのが当然のジャンルでは、大幅な客離れに見舞われてきた。徒歩圏内を市場とするなら別なのだが、移動の苦労を伴えば必然的に客足は遠のく。それが、例え酔っ払っても、乗れば勝手に家に帰ってくれるようになる。自家用車の中なら、他人に醜態をさらすこともない…と思うと、何やら想定外のとんでもないことをしでかす輩が出て来そうな気がせんでもないが、まぁとにかく、呑んでも乗れる、は劇的な変化だ。

自動運転車側に責任が転嫁されるなら、運転手という職業も、なくなる。無人で全てが動くのだから、要るわけがない。だが、車掌や客室乗務員といった仕事は、残り得る。整備士なども、搭乗するわけではないにせよ、なくなりようはない。

そうなった時点での、車の評価基準はどうだろう。挙動や乗り心地、静粛性など…総じて、居住性とも言えるそれらは、とても大きなファクターになる。燃費や無補給走行可能距離も、外部と接触せずに移動を叶え得る最大距離とコストだから、重要。一方で、パワーやブレーキといった性能は、居住性を語るための副次的要素となる。何馬力アップしたなどということはどうでも良く、「今度のコンピュータソフトのアップデートでは、より円滑な加減速・制動を実現しました」といったことがウケるわけだ。

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つまるところ、人類が上手にこの変化の潮流を渡りきるなら、その変化は「モノからヒト」だとも言える。モノに関わる時間が節約され、ヒトと関わる時間が生まれるからだ。或いは、機械の操縦から開放されることで発生する時間を、文化的に活用できるようになる、とも言える。もっとも、それもヒト次第であり、寝てばかりいるようなら、人類はより怠惰な存在になりかねない。果たして、自動運転の社会で人類が得るのは、繁栄だろうか、それとも衰退だろうか…。