経済アナリストの森永卓郎氏が日経TRENDYnetのコラム「構造改革をどう生きるか」の111回で、「コンパクトシティは高齢化社会のトレンドか」と題して九州新幹線によるストロー効果を懸念し、熊本のような半端な都市は「酔っぱらって歩いて家に帰れる」規模の都市を目指せと提言しておられる。
郷里博多を誉めあげて貰ったのは嬉しいが…
だが、熊本は氏が言うほど田舎ではない。むしろ、郵政や国鉄の地方総本山が熊本だったことから、九州のヘソ、熊本こそが中心というように、自負が強い。どちらも民営化されてしまったのではあるが、熊本人の誇りまでは変わらないだろう。私の記憶からすれば、熊本や大分のほうが“合理的な、適度な都会性”を持っているのに対して、博多はあまりに混雑した“小東京”として個性を失っていったのだと思う。森永氏の言う「日本の地方都市のなかで、都市機能のすべてを持ち合わせた珍しい町」は、私が離れた10年前ですら既に、休日に他県から集まってくる人々でパンク状態。駐車場には入れず、道路は大渋滞。僅かな距離の移動に時間がかかるため、例えば一件の所用を済ます場合の、長距離を移動しなくてはならない人とのかかる時間の差がなくなりつつあった。
“観光”集客の真のブランド力は、博多では弱い
私は、先ず、熊本が博多と遠距離の客の集客を競うのに、何も案ずる必要はないと思うのだ。観光資源は熊本・大分・長崎・鹿児島・宮崎にあり、福岡は単に商業面で山口まで含む周囲各県の人々の受け皿となっているに過ぎまい。
新幹線がつながったなら、私ならと思いつく旅があるが、いずれの旅も熊本など他県を巡る旅だ。
新幹線開業で例に挙がっている軽井沢を言うなら、九州の軽井沢である小国や湯布院など、今でも十分ブランド力を持つところがある。そうしたところは停車駅でこそないが、この開業で益々潤うと推測するに難くない。博多は逆に通過点に過ぎなくなる。今でこそ乗り換えのお陰で土産品が売れる博多駅が、閑散としてしまうのだ。だから、よしんばストロー効果が出たとしても、それは通過点化した穴を埋めるものに過ぎない。
田舎の物価は必ずしも安くない
一方、田舎暮らしの欠点は案外物価が高い事。物流コストがかかる割に消費量が少なく在庫コストも乗るから、耐久消費財などは概して高い。その上、食品にしても良いものは都会の市場へ出してしまうから、これまた案外と良い品は少なく、単純に安いばっかりではない。こうした面は東京で生まれ育った森永氏には分かるまい。
コンパクトシティを通過点状態としないこと
森永氏の言うコンパクトシティは理想で、実は昔の福岡はそうだった。文化的な刺激が欲しければ飛行機で東京までひとっ飛び。それでも、埼玉や千葉の隅の方から出てくるよりは早く都心に到着可能だった。なにせ、空港が都心に極端に近い。東京羽田まで何便も飛んでいる上に、空港まで車で15分だった博多の我が家の懐かしいこと。シゴトの納品には午前中に電話をすればバイクで回収に来て飛行機に載せ、同日夕方までに東京23区内配達という夢のような郵便があったから、東京23区内でシゴトをしているよりも効率的だったのだ。ちなみに、このサービス、新特急郵便という名称で札幌・東京・名古屋・大阪・福岡の各市内間で取り扱われているが、神戸には、ない。
しかし、そうした理想の福岡も昔のこと。今となっては、人々の動向からして、時間軸の通過点のように私には思える。世の中、そこそこ適当な規模で留まってくれれば良いのだが、なかなかそうはならず、過疎と過密の両極端に向かいがちなようだ。
人為的に分散を計れるとすれば、遷都や道州制による新都心の創造などは、理屈では機会となり得るのだろうが、これも、はてさてうまく行くのかどうか ─ それでも、博多一極集中を押しとどめて、各地の既存の街が基礎体力にできるものがあるとすれば、それは“大昔から延々と受け継いできた地方ごとの魅力”で、それを発揮するようになるには、インターネットのような仮想情報高速道路網こそ整備すべきなのだろう。耐久消費財の価格を地方都市が競っても、パイの大きさが違う以上、無駄だ。ネットでの価格比較を知った消費者相手では店舗はショールームの役をするに過ぎず、販売に直結せずビジネスとして成立しない。そのような機能はだから、コンパクトシティのお品書きには入れるべきでない。
情報ハイウェイこそ必要
九州の魅力は、幾度か訪ねたくらいでは分からない。何十年も博多で暮らしていた、ほぼ全ての離島にも渡ったことのある私ですら、その魅力を味わい尽くしたかといえば、否。スルメのようなリピートすることで分かる味わいがあるのが、九州に限らずそれぞれのお国柄というものなのだと思う。
だから、都会に暮らす人々が求める田舎を小都会化してしまった挙げ句集客の魅力を失っていることこそ問題で、立派な田舎になれば集客パワーは十分にある。それに、情報がふんだんに入るのであれば、あとは自然に易しく癒される空間に暮らすことを選ぶ人、そういう環境のほうがベターな職業の人は、決して少なくない。大部分を在宅勤務でこなせる人なども、ブロードバンド接続さえ確保されるなら、どこに居ようと関係はあるまい。医療ですら、専門医の診断や治療をネット越しに遠隔で受けることが(実際に日本で実施できていないことは置いておいて)とっくに可能な時代なのだ。
酔っぱらって歩いて家に帰れるかどうかはさておき、都市という形骸的な箱物寄せ集め空間の必然性は、インターネットブロードバンド時代には薄い。必要なのは情報ハイウェイなのである。
閑話休題、酔っぱらって帰ろうにも、肝心の中洲の飲み屋のほうが減ってしまった博多。今月は馴染みだった店がまた一つ、店じまいするという。その昔の接待交際費もうたかたの夢。昨今は飲み歩くどころか、若者は呑まず、呑む中高年はドクターストップがかかっているか、家で発泡酒を呑んでいるしかないのである。案外、街作りに必要なのは英国のパブのようなものかも知れないとは思うのだけれど…
Posted by nankyokuguma at 16:55:29. Filed under: General
