犬を飼いだして7ヶ月。メタボの恐れが散歩で減って、家族は先ずは目論見達成と喜んでいる。まだ子供が生まれる前から飼っていたシェパードが死んでから、ニ十数年。縁あってやってきた黒ラブに“カブ”という名をつけて、オフィス犬を任じた。以来朝晩、南極熊一家連れ歩きである。
ところで、犬を連れて歩くと棒に当たるじゃないが、妙なことでも改めて考えさせられる。
─ 野良猫? それとも被災猫? ─
実は先頃、兵庫県芦屋市ではペットの糞の始末をしなかった飼い主には罰金10万円などという、調べた限りでは恐らく類似の法規の罰金としては世界最高額だろうと思われるペット関連の条例が同市議会で可決された。しかし、六甲山麓の芦屋市のこと、早朝には、ほうぼうに深夜に徘徊したのであろう猪の糞が落ちている。ひょっとして、こんな規則を思いついた人は、あれを犬の糞だと思ってないかい、とも思う。
猫のほうはといえば、住み着いたら最後、家の床下だろうとどこだろうと棲み処にする。そこらをうろついていたところで、野良猫だか飼い猫だかの区別も難しい。昔、家にキィウィの木があったときには近所中の猫が集まって、飼い犬の敵対心を煽っていた。調べてみると、なるほどキィウィはマタタビの類。道理で目の色変えて集まってきたわけだ。まぁとにかく、野良猫に餌をやってしまう猫好きな人は後を絶たず、その場所に猫嫌いがいればもっぱらの迷惑千万となる。いや、猫嫌いを宣言するような人でなくても、盛りのついたときには夜中でもやかましいと思うだろう。

だが実は、阪神間の猫には、震災にまつわる原因もある。家が震災で潰れた後、棲み処のなくなった猫が六甲山に棲みついた。で、登ってくる人たちのうち愛猫家から餌を貰いつつ生き延びて、もう数世代目になっている。洒落た神戸にいた飼い猫が山猫になったのだからと勝手に名付けて「洒落神戸山猫」と言ったら、家内から白い目でみられた。はいはい、オジンジャレです。(写真:六甲山風吹岩で餌をもらいに集まった野良猫 '06年4月17日撮影)
野良猫や野犬が棲んでいたとして、それは何が何でも駆除するべき対象なのか、どうか。六甲山では猪を例にとれば、猪をペットとして飼う人は少ないだろうから、もっと分かりやすいだろう。どこぞの国では野良猫や野犬も自然の一部と考え、駆除ではなく去勢手術した上で放しているという。絶対量が極端に増加するのを抑えつつ、共存の道を探っているのだ。そうした取り組みは妥協点の模索過程として一理あるのではないだろうか。
─ 動物が棲息不能なら、人間も棲息不能 ─
スプロール現象よろしく自然に向かって人間が侵食していることを忘れて、昔っから地球全部が人間のものだと言わんばかりの錯覚が、犬猫に対する姿勢に端的に表れていないか。はたまた、洒落神戸山猫に至っては、飼えなくなったなど何らかの理由で人間から離れざるを得なかった、震災の傷跡なのである。
他の多くの生物・植物の立場で「自分達も自然の一部であるということを忘れたときから、人間は地球にいては迷惑な種になった」と考えると、最近の多くの自然災害が「地球が人間を振り落とそうとしている」かのように思えてくる。人間の思い上がりは、自然を排除してきた行為に端的に見て取れる。人間が多くの菌と共存するがゆえに免疫があって生きていられるように、不都合なものを全て排除した社会はどこか息苦しく、生きた心地がしないだろう。
犬好き・猫好きも犬嫌い・猫嫌いも、はたまた動物嫌いだとしても、だがしかし、人間という動物であり生き物、存在は自然の一部。ここを起点にしない限り、真に豊かな社会など実現するべくもないと思うのだ。
Posted by nankyokuguma at 10:36:11. Filed under: ワン歩の徒然に

