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Saturday, January 14, 2006

さて、書き始めたきっかけとなった坂本氏の記事には、北米トヨタが彼国で最も多く売った車種において、TVCMを一切流さなかったという噂のことが記されている。

アメリカでの車の広告といえば… 先ず思い出すのはディーラーの安売り連呼型。次いでメーカーによる広告だ。これをやらずにいた車種が最も売れたというのが嘘か真かはともかく、おそらく、それはイメージ戦略の一環だろう。つまり、大衆車ではなく高級車の場合、不特定多数に対して訴求しても、カリスマ性を下げるだけだ。ロールスロイスのTVCFなんかありゃしないけれど、それもしかり。ロールスロイスとトヨタの違いは、トヨタの場合はカリスマにしては販売台数が多いということだろう。

TVCFはあくまでも広告戦略の一環であって、すべてではなく、また、人はなかなか、わざわざURLを打ち込んでアクセスしてはくれない。だから、TVCFでURLを流しても、期待するほどには誘導できない。TVCFで企業の姿勢や新車全体の雰囲気、デザインや機能のトレンドは訴求できても、細分化されたユーザーの好みに対してマス的に個々の商品を訴求するなど、無理な相談だ。特定の商品ともなれば、W.W.W.がより多くの情報を顧客に伝え得る以上、サイトへの誘導がTVCFに優先するようになるのは自明で、結果、限られた全体予算の配分バランスから言えば、TVCFの絶対量は減るだろう。

ザッピングもまた、TVCFの脅威だ。ずいぶん前のオリンピックのとき、アメリカはこの話題でもちきりだった。オリンピック中継だからと広告を取るのは良いが、その量が多すぎると、途中でザッピングされてしまうか、トイレに立たれてしまうか、だ。だらだらと続くCFを見続けてくれる視聴者はいない。だから、広告は無駄。そう判断した企業が増えて思うようにスポンサーが集まらないという話。企業は、中継のスポンサーだけでなく、ゲーム自体のスポンサーであることも選べるのだし、選手をサポートすることもできる。そのほうがコンテンツ自体の中へ自社製品の露出を得られるのだから、ザッピングされずに済む。視聴者が録画でもしてくれれば、繰り返し訴求することにもなる。ニュースなどで伝えられれば、繰り返し放映され、効果はさらに高まる。

だから、広告戦略としては複数の、できるだけ相応しいルートでターゲットたる消費者へ確実に情報を届けようとし、不特定多数を相手にするスポットのTVCFは、選択肢の中でもとりわけ積極的に利用されるものではなくなる。それは、例えばドラマの中で商品を使わせるような広告手法が編み出されてきたことでも分かるだろう。録画で広告がとばされる今はなおさらだ。ザッピング避けよろしく番組の間に思わせぶりに挟む姑息さなど、うんざりだ。

一方で、では広告ではなく有料放送化の方向性はどうだろう。専門を絞りチャンネルごとにジャンルが分かれるというあり方が、一つ。アメリカのラジオでは、ロックばかり、クラシックばかりといった音楽ジャンル別のラジオ放送が普通。これは、聞いていて非常に心地よい。気分次第、状況次第で適当な“音楽ジャンルを選べる”し、同じジャンル局同士でも、選曲の違いなどの妙がある。テレビでは、CNNは言うに及ばず、政治専門のC-SPANやスポーツのESPN、etc,etc...。日本でも、同様にCSがジャンルなどで特化したチャンネルになっているように、多チャンネル時代の放送のありようはある程度見えているように思う。

もう一つは、宗教や政治・思想や分野で特化したチャンネルの存在を、一定の制約のもとに許容することだ。プルの媒体なら、物事限度があるとはいえ、ある程度偏っても構うまい。プッシュ媒体としては全く許されないことが、プルでは許容され得るのだ。アメリカのラジオで、どんな辺鄙な場所にいっても聞こえるのは、ロックンロールとキリスト教の説教放送だ。

余談だが、90年代後半からの西海岸では、これにパソコンの使い方番組が加わっていた。一日中パソコンの使い方教室を放送していて、聴視者の質問も受ける。たいていの質問に即答していた担当者のスキルも相当なものだが、そうした媒体の存在が、彼国の情報リテラシー向上に果たした役割は大きいだろうと思う。情報リテラシーに係るTV番組の例では、イギリスBBCのクリックオンライン以下多々あり、CS、スカイパーフェクTVにもそうしたチャンネルはある。

偏向放送の行き過ぎへの予防線としては、視聴者による選別という自浄作用も働くだろう。公共の資産たる電波を私物化するような特化した放送は許容できないという建前が聞こえてきそうだが、多チャンネル時代の電波を公共の名の下に特権化することの害のほうが、偏向した放送を許容するよりも遙かに大きいのではないだろうか。

ところで、そうした方向性の上でも気に掛かるのが、商業至上主義。行き過ぎた商業主義には辟易する。大本営発表が超偏向情報であったように、商業至上の偏向や放送内容への介入は、消費者利益に反する。それは、雑誌や新聞でも同様だ。おおよそバイアスの掛かりすぎだと感じる記事なんぞは話半分に読む癖がつく。最初に紹介した杉山氏の遺書にある「嘘をついてもばれるものです」に、重みを感じるところだ。

今回は坂本衛氏の記事のおかげで、思うところをこうして記述することができた。続きは20日に公開だそうだが、楽しみである。