Skip to main content.

Friday, January 13, 2006

広告の事を考えるとき、思い出すのがコマーシャルディレクター杉山登志氏である。氏の遺書に書かれていたという
リッチでないのにリッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません。
「夢」がないのに「夢」をうることなどは…とても。
嘘をついてもばれるものです。

のくだりは、非常に良く知られている。

昔の広告は… 見る価値があった。氏の作品もすばらしかった。氏が亡くなった頃は「最近のCFはときめかないなぁ」と感じていた。今では、きわめて希にプッと吹き出す広告こそあるものの、広告されている商品の購買行動につながるかといえば、否。きわめて曖昧な関係でしかないように感じる。それ以前に、情報との関係が変わってしまってもいるのだが、それは後述。

この話をここで書き始めたきっかけは「「民放の根幹を揺るがす、ある“深刻な”事態(1)」と題した日経BPサイトのblog記事。著者の坂本 衛氏は1958年5月生まれのジャーナリストで、放送批評誌やオフレコ!!誌の編集長・副編集長などを勤めてきた方だそうだ。58年5月といやぁ、私の一級下。感覚的には近いものがあるかも知れない。

私にとって今のTVCFはといえば、間の悪いものや騒々しいものが気に障り、消音したり、ザッピングを始めるきっかけになったりしている。購買意欲につながるどころか、絶対買わないぞと意を強くすることは、多々ある。晩飯どきにトイレの洗浄剤の広告を見せられたり、良い雰囲気で見ていた番組の合間にガンガンと音量が上がるような広告が、そうだ。食べているときに、その結末を連想させられて、愉快な人がいるだろうか。音量で言えば以前、CSで音が割れるほどあまりにインプットレベルが高く、局に電話で抗議したことすらあった。今でも、音が割れるほどではないだけの、うるさいCFが少なくない。

番組どころか、該当局自体を見なくなることもある。私がCNNを流している時間はBBCの半分以下だが、それは偏に騒音でしかない広告のためだ。もともと、広告が嫌いで有料放送を見ているのに、銭を出した電波でなぜまた広告を見せつけられるのかと腹立たしく思う。そうしなければ放送自体を維持できないとあれば、これは致し方ない。だが、東京の地代の高いところで高給取りどもがエエ格好するために広告が必要なのだとしたら、許し難い。衛星放送なんぞ、コンテンツをハンドリングしているだけなのだから、どこか電気事情のよろしい晴天率の高いところでやればよろしい。都心である必要は、ない。

かくのごとく広告が嫌いなのだから、個人的に購買につながることは、先ずない。店頭で見つけて「そぉいえば広告してたなぁ」と思い出せるか、全く気にならないかくらいの、バイアスの有無の差だ。あるカテゴリの商品全体のトレンドを漠然とにおわせる効果くらいは、果たしているのかも知れないが、それにしては費用が掛かり過ぎている。費用対効果を計れば、自然と直接購買行動に結びつくWebサイトのほうが、TVCFよりもはるかに有効に機能しているのではないか。

冒頭の杉山登志氏の遺書が記された頃は、商品広告や消費行動の前提となる価値観が大きく変わる、時代の節目の一つにあたっていたように思う。今起きている変化では、価値観だけではなく、もっと巨大な、その根幹を成している地球規模の構造変化を伴っている。価格の主導権が消費者側に移り、モノは置き場がないほど溢れ、単純な印象だけでなく企業の姿勢などまで加味して商品が選ばれる時代に、わずか30秒ほどの流れ去る情報で購買行動に直結させることなど、到底叶うものではなかろう。時代は、プッシュからプルへと変化しているのである。受信の選択権もまた、視聴者側に移ろうとしているのだと思えば、TVCFのことも、自ずと合点が行くだろう。

私自身としは、見る価値ありと思う番組は、広告ヌキで有償で見たい。それほどの価値のない番組なら、その時間は他のことに費やしたい。その貴重な、見たい番組を見ている時間を、騒々しい広告やTPOを無視した広告で台無しにするような企業及びその製品にはマイナス点をつけて、できるだけ買わないようにしたいと思っている。夢のない広告で「ご利用は計画的に」などと高利貸しから説教されるなんぞ、まっぴら御免なのだ。