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Friday, March 13, 2009

ホンダのハイブリッドが売れているのを見て、トヨタもハイブリッドをより安くすると決めたようだ。しかし、まだどうもこうした動きは、本質に迫っていないように思う。ここでは、先にシリーズで綴った自動車の変わり目の話を補ってみたい。

余談1 変身カー

積載能力のところでトレーラーの活用を書いたが、一台の車を変身させる方法もある。具体的な例を挙げると、最近ではシトロエンC3プルリエル。サルーンのボディはパノラミックサルーン、カブリオレ、スパイダー、スパイダーピックアップと、五通りに変身した。似たようなコンセプトの車は過去にも作られていたと記憶していて、それが日本国内で実現しなかった理由が「一つの車に二つのシルエットは要らんだろう」というお役所の判断だったということも、脳裏に残っている。IsuzuMuもピックアップと乗用を兼ねるデザインだったが、日本では2シーターピックアップにされてしまった。

ちなみに、シトロエンC3プルリエルは、ピラーまでも外してスパイダーピックアップにできるものの、その外したピラーを格納する場所がない。BBCのTopGearという番組で、助手席にピラーを抱えて乗っているJames May氏には大笑い。シトロエンといえば、ディレクショナルヘッドライトも早くに実現していたが、役人が認めなかったために日本国内では固定されてきたという経緯もあった。

もうたいていで、日本の役所も様々な新技術を積極的に導入させる方向に変わるべきだ。日産のTVCFのようにロボットに変身することは、現実にはあり得ないのだし…。

余談2 ユーレイ

トレーラーの補助動力という考え方は、鉄道には既存で、ユーレイというそうな。補助動力付きトレーラーは、電動ならば全ての制御系統を電気的なカプラーで接続できるのだから、考えればかんがえるほど実現性がありそうに思えてくる。ついでに、操舵輪をトレーラー側に加えて、旋回半径を小さくすることだって、可能だろう。

トレーラーといえば、タイヤの摩耗を防ぐため、牽引車の最後部の荷重を支える車輪を、被牽引車を引いていない場合に持ち上げておく仕組みもあった。摩耗損の面では塵も積もればだし、タイヤの騒音も摩耗ダストも減る。「もったいない」精神が自動車畑で発揮されている、良い例だ。

余談3 発電回収

バスにも酔うことのある私は、後部座席が大の苦手。だから、7シーターの最後列に座ることなど考えられない。

ところで、積荷も人間の体重も極めてフレキシブルだから、パワーを合理的に節約し活用する仕組みは求められて当然のように思えるのだが、どうだろうか。補助動力付きトレーラーという考え方の他に、全輪駆動が不要なとき、その半分をパワー取得のみならず発電に回しておくことは、当然の仕組み。この動力源=発電機という利点は、電気自動車にとって、他のクリーンな動力源と比べるとき、非常に大きな優位性になりそうだ。発電効率が鍵なのは言わずもがなだが、ブレークスルーが近いと良いなぁ、と思うこと、しきり。

余談4 付加価値

自動車の蔵出し価格と市販価格の間には、多くの社会的経済価値があった。ところが、それが吹っ飛んだ。日経BPnetのコラムに経営評論家の桐原 涼氏がで消費を襲う“付加価値崩壊”という記事が掲載されている。

「もはや現在の消費者は自動車の付加価値に対して、お金を出してくれない。自動車やパソコンの付加価値は、崩壊の危機に瀕しているのである」(同記事から)
とあるが、そうなった背景は「付加価値と言えるような付加価値のある製品が皆無であること」だ。

例えば、今この瞬間、ガソリン代ゼロの車があったら売れるだろう。桐原氏が示している付加価値の崩壊は、価値観の変化を読んだに過ぎないが、その指摘する認識は正しい。同氏の言う「立ち返るべき真の価値」とは何かが、行間に潜むその問いかけであるわけだが、一つには、人の思い描く夢、ビジョンとその実現に不可欠な道具であること。もう一つは、必要不可欠な機能を提供する定番商品だ。モデルチェンジが頻繁で流行に左右されるものではなく、定番として長く使え、或いは補給・修理・買い換えが可能なもの。頻繁な入れ替わりの終わりつつある今、それは作り続けられ得るモノへの憧憬ですらある。

安定して時代を超える価値を持つ定番のもう一つの側面は、資産価値の保持だ。一度使ったら中古品という使い捨て文化から、もったいない精神でものを大事にする文化へ ─ 安定した価値を保持する商品こそが受け入れられるのだろうし、そうであってこそ「どうせ買うなら良いものを」という心理が有効に機能するのだ。

例えば、自動車を売買する中での一つのキーワードに「リセールバリュー」がある。下取り価格が比較的高いからAT車のほうが良いといった判断だ。だが、それには大きな間違いがある。自分で長く使い続けたいという個人的価値観に基づいた消費行動の結果得られる満足と、それを手放す時の価値を秤に掛けて、自分の満足を犠牲にしているユーザーが少なからずいそうだ、という意味で、間違いなのだ。真の付加価値は、必ずしも万人受けの最大公約数を意味しない。個々について、付加価値の分かる、価値観の共通するユーザーを対象とするものが、そのシェアを得てしかるべし。対価を払う価値は、そこにこそ、ある。