これまで、燃費や動力性能のために軽量化をうたいつつ、一方でSUVの流行のように人々が実際に所有する車体が重くなり続けてきたのには安全性も絡んでいるのだが、そこは樹脂ボディなど新素材と、電子制御の更なる飛躍が求められるところだろう。ぶつかってから安全な車ではなく、ぶつからない車にしてしまう ─ アクティブ・セーフティだ。インフォモビリティや…
ハイテクが駆使されるビジョンは既出で、改善されて行くであろうことは自明。最終的には、自ら操縦するという愉しみも過去のものになりかねないほど、先進的なビジョンが実現されつつある。繰り返しになるが、ある意味やむを得ない方向性ではあるのものの、愉しめる余地が皆無となると、普及が難しそうだ。人は原始的な快感に価値を見いだしてもいるのだから、制限されるべきところと制限から解放されるところを分けたほうが、受け容れられ易いのではないだろうか。
前述の騒音にも関連させて考えれば、安全のために制約を受ける部分では、人と車の接点を最小にする必要があるだろう。但し、一方で車の利便性は荷の運搬という特性からドア・トゥ・ドアにあるわけで、うまい具合に乗降できないようでは使いづらくなる。僅かな距離を移動するもの大変な身障者や高齢の方々のことを考えるなら、なおさら。救急車や消防車だって、できるだけ近づけないと、役立てづらい。こうなってくると、都市設計の1からの熟慮が不可欠だと分かる。もちろん、空間があればところかまわず進入し放置するようなドライバーは論外だが、自動車を使う社会資本という入れ物の設計思想もまた、変わるべきなのだ。必ずしも、単純に車を排除すれば人に優しい町ができるわけではない。むしろ、必要に応じて最も合理的に活用できてこそ、あらゆる人に優しい、ノーマライゼーションされた社会だと思う。
公共輸送機関を脱車社会の回答にすると、そうした道が絶たれてしまう。公共輸送機関を交代で運転しても、経済が立ちゆくわけがないし、公共輸送機関だけで全国津々浦々の移動ニーズが賄えるわけもない。車を、過去膨大な投資を行って培ってきた社会資本とセットで改善して行く ─ それでこそ、私たちは自動車というテクノロジーの恩恵を受け続け得るのだし、自動車製造や公共事業も継続され、雇用も保たれるのだ。
今までは自動車という独立したカテゴリーがあり、背景に道路行政があった。しかし、これからは、自動車+道路行政+公共輸送=交通行政として、一体化されたほうが良さそうだ。過去にも、例えば細川政権時代にトラックの積載能力を上げることと道路や橋の基準が絡んだことがあったが、運輸省と建設省が合体した、そのビジョンには、広く交通行政という括りで考える視点があったのではないだろうか。「車を売ろう」「売れる車を作ろう」だけではなく、車を誰もが所有することで国が豊かになるような国土を整備することだ。前述のように、それは未舗装という選択肢を含め、より広い観点から適切に判断して行くべきことで、決して“舗装道路の整備”だけを意味しない。もっと賢く、もっと(広義で)豊かに ─ 化石燃料内燃機関の時代は終焉を迎えつつあるのかも知れないが、長い目で見れば、これも人類発展の一里塚に過ぎない。少なくとも、人類にはそれだけの知恵も行動力も、実現する技術も、まだまだタップリあると信じたいじゃあないか。
[ 了 ]
Posted by nankyokuguma at 00:10:00. Filed under: Vehicle
