ドライバーシートがオーナードライバーとしての満足を与えうるクオリティであることも、重要。そうでなきゃ、維持する気力が失せるというものだ。実際、車が売れない背景に所有しない選択があって、カーシェアリングなどが伸びている。では、所有したい、所有しなくちゃあ困る、となるには、何が必要なのだろう。
いろんな条件を満たしながら…
所有欲をも満たす(満たされるから持ちたいと思う)車である条件に、時間の自由の拡大を挙げたいと思う。
公共交通機関では不可能な時間・距離・地点間の移動を可能にする方法が、自動車には欠かせない。必要になったときに必要なところへ合理的に、個人空間として移動できること ─ インフォ・モビリティというビジョンで実現を目指している円滑な交通は、その一つだ。誰かが借りていて出払っているから乗れないじゃあ済まない人たちは、その移動の自由さから、車の自己所有を必須とするだろうが、それは“いつでも好きなだけ乗れる”ことが前提だ。
欧米で自動車が誕生した後、真っ先に起きた社会的革新は、違ったコミュニティの恋人と巡り会うチャンスを若者に与えたことでもあった。ちなみに、その時、その所有者の人柄や社会的立場を如実に車が表していることからだろうか、欧米では「車は人」と言われる。今はその役割をインターネット─W.W.W.や電子メールも担うようになり、巡り会いの範囲は大きく膨らんだ。同様に業務にまつわる事であっても、ITの活用が出向く必要を最低限にしつつある。だが、人間や物体が電送されるのはまだちょっとSF的。モノを移動させずに済むようになったのはソフトウェアや音楽で、DVDの映画もそうなりつつある。だが、移動の楽しさと自由さが必要と重なってこそ、人はそこに必要性を認めるのだし、そこに、自分らしさやその会社らしさも求められるのが自然だろう。それに何より、仮想空間がそれらしく感じられるのは、現実のそれを知っていればこそだろう。
但し、量り売り野菜じゃあるまいし、黒塗り大型乗用車のような重厚長大=高級で一辺倒のノリは御免だ。エネルギー効率という観点からすれば、やはり軽いに越したことはなく、欧州や日本を思えば、外枠はやたらと巨大にはしづらい。小さいながらも十分に所有欲を、様々な感性に合わせて満たす工夫や選択肢が求められる。要は、新しい車の価値が創造されることと、それで人々が価値観を完全に塗り替える結果をもたらすことだ。そうなって初めて、人々は量産による低価格化の恩恵を享受し、車という移動手段を活かして行けるのだと思う。さもないと、公共輸送で事足りるとばかりに自動車が少数となり、一台数億円の開発モデル的存在になってしまいかねない。それじゃあ、たまらん。
Posted by nankyokuguma at 00:10:00. Filed under: Vehicle
