Webサイトのことを“ホームページ”と呼ぶのが誤用だということは、その黎明期に関連書籍はもとより、ワードプロセッサ一太郎の説明書に至るまで、そこらじゅうで力説されていた。本来はワールドワイドウェブの閲覧を開始する最初のページであり、そこから一つのサイトの冒頭ページの意味も含む。ところが、新聞などがサイトの筆頭ページのURLを示すのに「ホームページのURL」とやったあたりから雲行きが怪しくなり…
「赤信号、皆で渡れば怖くない」で、とうとう誤用のまま広まってしまった。最悪はHPという略で、記事によっては何を言っているのやら意味不明になる。現実にあった例では「HPのHPはHPのサーバーで運用されています」(スノーボード・ハーフパイプのWebサイトはヒューレットパッカード社のサーバーで運用されています)。ここまでくると呆れてものが言えない。
私がこの誤用を認めないことにしたのは、ある時、米国人から目一杯バカにされたからだ。曰く「お前らのサイトなんて、どぉせ“ほぉむぺぇじ”なんだろ」(冒頭ページだけで中身なんかないんだろ)。WWWに占める情報の割合からして、当たらずとも遠からずとはいえ、悔しいったらない。それに、職業のWebデザイナを“ほぉむぺぇじでざいなぁ”と呼んだらどうだろう。相当に職業を貶めた表現に聞こえないだろうか。
だが、このことを改めてここに書く気になったのは、別な理由からだ。それは“ユーザービリティ”。とある人が携帯電話を使ってノートパソコンのインターネット接続を実現しようとした。ケーブルを買ってきていざつなごうとソフトウェアのインストールに挑んだが、さっぱりわけが分からず、とうとうギブアップしたというのだ。
そこで、その方の行動をトレースして、マニュアルのPDFをダウンロードし、読んでみた。
まず、定額データプラン接続ソフトをインストールする。その手順の中で機種リストから使用機種を選ぶようになっているが、そこに機種名がなかった場合、最後の質問のページの回答として、ドライバへのリンクがホームページにあると記されている。それに、長々とURLが示されているが、PDFなのにクリカブルになっていない。ここで二つの不便が出る。本来の意味のホームページにそのリンクがないのだから、たどり着けるわけがない。よしんば推理を働かせて、或いは長々としたURLを我慢して打ち込むかコピーしURL窓へペーストするかしたにせよ、回答で「ドライバをダウンロード」と表現していながら、該当ページにはドライバという表記はないから、行き詰まる。一応検索すれば直行できるが、そのためにはスペースで区切って機種名とドライバという二つの単語を入れる必要がある。この検索、あいまい検索機能がないとみえて、機種名に不要なハイフンなどが入ると該当しなくなる(Googleは「もしかして」でハイフンなしの機種番号が表示され、結果も出る)。(年金の照合をやってるのってNTT系じゃあなかったっけ…)
ホームページという語を正しく全サイトの冒頭ページの意味で使っていれば、「ホームページからお客様サポート→ご利用・ご活用サポート→アプリケーションダウンロードと辿って…」と正しく順路を説明できるのに、たった一つの誤用のために混乱を招き、ひいては“インターネット接続機能を得るためのドライバがインストールできない”ために機能が使えないわけで、FOMAのユーザービリティの一部を損ねているわけだ。DoCoMoサイトのトップナビの冒頭ページへ戻るボタンには“ホーム”とあるから、さて、このホームはどこに行く意味なのだろうと意地悪く突っ込みたくなる。
Webサイトを構築するにあたって、ユーザービリティは非常に気を遣う部分だが、その大元となるそれぞれを表す文言が正しく理解されていないと、混乱を招く。テクニカルライティングは非常に難しい分野で、書き方の悪さや用語の難解さがITにまつわる様々な事柄を分かりにくくしている場合が少なくないのだが、意味を違えて普及してしまっている語 ─ ほぉむぺぇじが典型 ─ が、そんな分かりにくさを更に助長している。今回の例の場合は、ほぉむぺぇじのような誤用を許している社会の自業自得という側面が否定できないように思う。
さて、ほぉむぺぇじ誤用の問題を置いて考えると、上の例ではもう一つ、用語の混乱がある。「ドライバをダウンロードしてインストールする」と答えながら、該当するページで入手できるのは通信設定ファイルなのだ。これでは、ドライバなんてどこにあるんだ、と思う人がいても不思議はない。表現が違うために、行き止まりのように感じてしまうわけだ。
この例はほぉむぺぇじの誤用と同様、ドライバという形容と設定ファイルという形容がイコールだという誤用から出ている。私にも、ドライバは設定ファイルとは違うとしか思えないから、これは相当ローカルな関係者だけの思いこみなのだろう。
情報化社会において、情報は言語や映像・音など様々な要素で構成されるが、そのうちの一つである文字表記・言語表記でこれほど揺れてしまうと、テクニカルライティングは対象や行為が特定できなくなり、成立しづらい。つまり、情報そのもののユーザービリティを低下させてしまう。一つの情報をある人は正しく読み取るが、別な人は違うように受け取ってしまうのだ。それで今すぐ命を落とす人がいるわけではない…かも知れないが、積もり積もれば、分かる人と分からぬ人が、デジタルデバイドの両岸ほどに離れてしまいかねない。
だが、幸いなことに最近は、“ホームページ”の誤用は若い人を対象とした情報ではかなり減ってきているようだ。この調子で、誤用が減ることを切に祈ると同時に、テクニカルライティングという、ロバート・パーシグ氏の“禅とオートバイ修理技術”が著述された昔からその分かりにくさが問題だった分野が、より成熟してゆくように願う。
Posted by nankyokuguma at 12:20:19. Filed under: General
