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Friday, May 16, 2014

出会いは、'80年代末。家族四人で、オフロードを走りキャンプをし、カリフォルニアからモアブ・ユタを目指した旅。それは、縁あって彼から借りたトヨタランドクルーザーFJ40で実現したのだった。

彼とは…

マーブ・スペクター氏。既にランドクルーザーパーツ販売事業で頭角を現していた彼は、ロサンジェルス北西部チャツワース郡で、奥様のケイさんとともに、その全勢力を事業に傾けていた。

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それまでFJ40を運転したことなど、ない。ランドクルーザーも、どちらかと言えば好きな車種ではなかった。最初は「じゃあJeepを貸してくれよ。できればCJ-5」なんてことを伝えていたのだ。相手のことを知らない、厚かましいにも程があるのだが、当時は、それほどまでのランクルマンだとは思っていないから、ご紹介くださった方に促され、言われるままにリクエストしてみた次第。ま、結局ロス入りしてみたら、待っていたのはFJ40だったというわけ。

後に、保険が高いから二度とやらないと告白されたその貸与を受けて、私は家族四人のランクル旅に出ると、子供にアメリカの広さを実感させた。帰国後、4X4Magazine誌に4回に分けて連載したその旅行記は比較的好評だったと思うが、それもこれも、マーブが貸してくれたランクルがあったればこそだった。

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そのFJ40。パワステ?なし、エアコン?なし。マーブは暑いときのためにと、霧吹きを渡してくれた。ひたすらシンプルで丈夫。それから25年を経た今、世界中で値打ちを認められているその偉大さは良くよく分かっているけれど、それが未だに現役であり得るのは、影にマーブのビジネスの存在があればこそ、だ。

ビジネス ─ 戦士の片鱗をかいま見る

アメリカでネタを見つけては、雑誌に売り込んで企画を通し、撮影と文章でページを埋める ─ そんなフリーランス稼業だった頃、半年に一度、1〜3ヶ月渡米していたのだが、毎度のように、家に泊めてもらって一週間以上を過ごした。そんな厚かましい滞在をするようになって数回目のこと。夕方、彼が店を閉めるまで脇で待っていると、それまで「ハラペコ?」頷くと「ワタシモ〜」なんておどけていた彼が、その鉄扉に鍵をかけながら、「I wanna be success」と、心の奥底の一片をむき出した一瞬があった。その時の彼の表情は、今でも忘れられない。後にも先にも、あの一瞬だけ。あれこそ、誠実で友達思いのマーブの、あれほどの頑張りを支えた闘志がむき出された時だった。

カメラを向けると、いつも人差し指を突き上げて「イチバン」とポーズしたマーブ。きっと、「このビジネスは譲らない」「これでイチバンでいるんだ」という強い闘志が、あの柔和な姿勢の下で燃え続けていたのだろう。そしてそれは、多くの、起業して成功した実業家にも通じるのではないだろうか。

教わったことの多さ

出会いとなった旅行の時のこと。家族四人のオフロード旅でキャンプをするんだというと、知人が「物騒だから」とSW38を貸してくれた。何かあったら、これで家族を守れというわけだ。マーブにそれを伝えると、「撃ったこと、あるんか」…当然、撃ったことなんかない。早速、シューティングレンジへ駆けて、扱い方から狙い撃つまで、レクチャーと実習である。その締めくくりの、彼の一言。「他人の人生まで背負えるか。その覚悟がないなら、撃つな」は、様々な状況における銃というものがもたらしている結果について考える時、とても役立つ蘊蓄のある一言となった。

朝、元気かと聞くので、まぁまぁだと答えると、駄目だという。元気のない奴と付き合おうという奴はいない、と。だから、空元気でも答えるべきは I'm fine。関西流の「まぁまぁでんなぁ」はアカンのだ。宿酔の朝には「人は誰しもが必ず、何かをやり過ぎる」と、私の飲み過ぎまで一般論にする。それは、彼が寛容でいられた一つの要領だったのかも知れない。

一年に二度、半年ごとに2ヶ月ほどアメリカに滞在しては取材活動をしていた私は、その都度彼の家に一度は泊まっていたのだ。いつも何の文句を言うでなく、当然のように泊めてくれた夫妻には頭が上がらない私だが、いつも、このように何かしら含蓄にあふれた言葉や考え方を、彼から学んだのだった。

戦い抜いた黄昏

いつもビーフイーター、肉食漢だったマーブは、サラダと見れば「ウサギタベモノ〜」と拒んでいた。それが、いつからかV8ジュースも口にするようになり、食事のバランスにも配慮しはじめた。仕事以外に趣味のないような暮らしぶりも、いつしかキャンパーを手に入れ、釣りを楽しむようになっていた。

だが、酒も飲まず煙草も吸わない彼なのに、潜伏期間20〜30年といわれる癌は、少しずつその体を蝕みだしていたのだろうか。

彼には、マイク・フェネルという、彼と同い年のレストアラー(古い車の修復業者)を営む友人がいた。そのマイクさんが、昨年、突然に死去。訃報とともに「写真持ってないか」と問われ、ストックを掘り返しスキャンして送ったが、電話口で聞いた彼の謝辞には、今ひとついつもの覇気がなかった。昨2013年末には、訪日したいというケイを、マーブが「体調が思わしくない」と止めた。

とても彼らしくないのでひっかかってはいたのだが、やがて、膵臓癌と判明し、闘病が始まった。放射線療法はとても辛いものだったが、マーブは勇敢に戦い抜いたそうだ。それを甲斐甲斐しく支えたケイ。だが、治療は効果せず、マーブとケイは静かにその時を迎える選択をした。二人が夕日に染まる海岸でキャンプの一時を過ごした、その写真には、ケイと幸せな一時を過ごしている、癌と闘い抜いたマーブの、さわやかな笑顔があった。

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▲ お別れイベントに集ったランドクルーザー

お別れのイベント、そしてマービズムス

悔しくない筈がない。マーブには、ひとかたならぬお世話になった。その礼も済まぬうちに、「俺たちはハード・トゥ・キルだよな」と、その友情を誓い合っていたというのに、さっさと逝ってしまった。お別れ会をやるというので、5月1日に渡米。4日のその会は、米国内外から800人を越えるマーブの友人たちが集う盛大なイベントとなった。あれほどの人が集ったのも、偏に彼の人柄だ。

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▲ 社屋を会場に800人以上が集った、お別れのイベント。

泣いていてもマーブが戻るでなし、彼の思い出を胸に、集った皆が彼の仕草、指を立てて「イチバン」のポーズで写真に収まった。記念のシャツやカップには、マービズムス。要はマーブ語録だが、ローカルスラングの詰まった語録ながら、読み解けばなかなかの蘊蓄である。物事を見る目のユニークさで、素早く切り返しては客を笑わせ、最後には友達にしてしまう。マービズムス ─ マーブのそのセンスには、実業家としての独自の輝きがあったのだ。

今、これを書き終えるにあたって、改めてマーブが得た永遠の命を思っている。ランドクルーザーを見る都度、私の脳裏には彼の顔が浮かび、心にはいつも、彼の存在が感じられることだろう。R.I.P.Marv!

マービズムス

Marvismsの内容は現在鋭意翻訳継続中につき、予告なく変更する場合があります

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