もともとなかったのなら、関係なく人は暮らせていた。歴史的に、そうだ。それが今、与えられ、手に入り、いつの間にか頼っているそこに、ひっかかる。
20年前に… 拙宅を建てた。それは、住宅メーカーとの闘いだった。まるで、電力やガス、エネルギー企業が儲かるように手助けしているかのような印象だった。太陽光発電に至っては、国から補助金が出ていたにもかかわらず、どこの国の話ですか、だった。二重ガラス窓どころか、サッシの端には換気の仕組みがあり、機密性は皆無だった。ちなみに、このハウスメーカーは倒産し、今は大手家電チェーンの傘下にある。
アメリカはロサンジェルスにある友人が持っている貸家は、ちょっと変わっている。電源が全てDC、直流なのだ。車から降ろしたバッテリーをつなぐなど、電力企業に依存せずに生活できる。ただし、昔…四半世紀も前にはとてもへそ曲がりな存在で、電球一つ変えるにも往生した家だった。だが、その先見性を今、私は称えずにはいられない。
雪害でインフラが止まり、電気がつかない、電話が使えないと、四国では大騒ぎだ。だが、それを良く考えて見ると、ないと困るように飼い慣らされた私たちの姿が見える気がする。ある意味、社畜である。一億総貢ぐクン ─ 一端そう感じてしまうと、ちっとも嬉しくない。
山奥の村なら、小さな水路を利用した発電や、太陽光電池の発電などを使えば、かなり停電に強い暮らしは実現できそうに思う。電気のなかったころ、ガスがなかった頃のインフラを併用すれば、「日々の暮らしの安定」は保証される。そう、他の何かによるから、駄目なのだ。それも、貢ぎ続けなければならないような状況に、知らぬうちに仕向けられて。
さらに言えば、そうした既存エネルギーの既得利権を持つ連中が、使いもしないのに取得した特許、買い取った特許の中には、恐らく、そんな連中の利益源泉価値をゼロにするものも、含まれているのかも知れない。つまり、私たちは本当は、夢のような21世紀の暮らしをとっくに手に入れられていたのに、資本主義による欺き合いのために、それを失っている「かも知れない」のである。
地球が、変わり続けている。温暖化だの何だのと、年々、かつて知っていた自然とは違う世界が、目の前に広がる。自分が暮らす星を自ら滅ぼすやも知れない生物は、人類だけである。そんな生物や植物は他にないのだから、とどのつまり、人類はドアホである。
「大馬鹿門」。京都大学に、とある人が寄付しようとして、拒まれた校門だ。それを受け入れられる、自分たちがどれほどのものかという自覚があるなら、地球は、人間は、こんな具合にはなってないし、もっと賢く機敏に対応してきたことだろう。青色LEDの三大賢者がノーベル賞を受賞されたが、ACの停電で人がなくなる日本に、それもどこか虚しく感じるのは、私だけだろうか。
Posted by nankyokuguma at 21:54:12. Filed under: Nature
