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Tuesday, November 19, 2013

運動会のシーズンも終わり、寒風が吹きすさみだした。年末に向かって、目まぐるしく日々が過ぎるが、肌身には、どうも景気がパッとしないような気がする。実は、そう感じる一つの原因は、コンデジを中心としたデジカメメーカーの売上減というニュースだ。

やがて巡ってくる、春。三月・四月には、入学卒業という大イベントがあり、さらに秋には運動会と、うちもデジカメを、ビデオを我が子の成長記録用に、という父兄がこぞってデジカメをご購入という市場が、確実にあった。だから、我が子をアップで、ぶらさずに撮れるカメラに一定量の人気があったのだ。

ところが…

最近は学校で父兄の撮影を禁止する動きが加速しているらしい。前にしゃしゃり出て迷惑だとかなんだとか言って、写真は業者が撮るので、それを買いなさい、というのである。

一方で、昔ながらの近所の写真館ではなく、新たに参入した企業が、そうした撮影を請け負って販売するビジネスを始めているという。安く臨時で雇った写真家に写真を撮らせ、後でネット販売。デジタル化の流れから多くのプロカメラマンが失職しているから、撮り手探しには困らないのかも知れない。或いは、カメラが良いから、どうせ誰にでも写せるくらいに思っているのか。カメラマン側は機材持ち出しの日雇い。雇う側からすれば、設備投資といえば売るためのサーバーが最大なくらいで撮影機材不要だから、とてつもなく雇用側に都合の良い話である。持ち出しの機材の消耗費用や万一の故障など考えると、日当程度では、とても間尺に合うまい。あれはもともと、最後のプリント販売・焼き増しや、卒業アルバムも含めてソロバンが合うってモンだったのだ。

不思議なのは、雇用側の根性である。良くも、金銭対価を頂戴できるような写真が写るかどうか分からんものを、適当に雇用した撮影者に任せる気になるもんだ。私なら、写真が上がってくるまでは気が気じゃないだろう。我が子が写ってさえいれば、どんな写真でも買うだろうとでも思っているのだろうか。

さらには、携帯・スマホがある。昔はカメラを持っている人だけだったのが、今や、誰もが携帯やスマホをかざして我が子を撮ろうとする。生憎、それらには望遠レンズは備わっていないから、つい前に出てしまい、自ずと、邪魔になるといったことが起きていたのではないか。

ともあれ、今、上に掲げた理由から、運動会や学芸会で「我が子を撮るため」というニーズが消滅しつつあるのでは、と推測できる。撮影請負業者側からのキックバックがあったりして…と邪推したくもなるが、それがなくとも、ずけずけとしゃしゃり出て邪魔になる父兄には困っていたのだろう。業者の出現はまさに渡りに船だったのかも知れないが、社会的影響にまでには、思い至ってはいまい。他でもない、撮影機材などの販売市場と、写真そもののの価値への影響である。

家族による家族写真の危機?

実は、そんな時流には、最終的にその写真を必要とする側にとっての、幾つかの懸念がある。

先ず、写真には、「プラス愛情」の要素がある。我が子を愛する親ならではの、瞬間を見る目止める目や、動きの追い方。友人関係を熟知しているからこその、フレームに納める構成の違いもあるだろうし、下手でもそれなりに、楽しい思い出の記録になる。パパ・ママが一生懸命撮ったことも、その思い出のうちだ。ところが、前述のような業者任せの潮流は、そうした要素を全て蹴飛ばして、ビジネスライクに記録を残す。例え、それが雑誌などの一コマのようにプロフェッショナルな写りであったとしても、しかしそれは、日常の一コマではあり得ない。

だからといって、携帯・スマホで一部始終を撮っていては、肝心の我が子の姿が記憶に残らないというか、記憶の全てが液晶画面越しでは、悲しい。だから、まぁほどほどにとなるのだし、実際、ずっと構え続けていられるわけでもない。が、一方で、「あっ」と思って撮る衝動を禁じられるというのは、大きなフラストレーションになる。禁止はされたけど、本当に写ってるんだろうか…後で買えるとはいうけれど、と気になりだしたら最後、我が子を見つめるどころじゃない、うわの空だろう。そして、撮影を依頼されている側としても、もし会場全域をくまなく見張る監視カメラがあったとして、その一部を切り出してでもこないかぎり、全員のそうしたニーズを捉えて撮るのは不可能だ。

幾らプロの写真があっても、自分で撮った我が子の写真はまた、ベツモノ。それには、家族ならではの背景や様々な思いがあるなど、いろいろあれこれひっくるめての「思い出記録」。決して、写っている被写体だけでで完結しているのではない ─ それが、家族による家族写真なのだと思う。

つまり、今の「イベント写真撮影請負業」と「父兄の撮影禁止」という潮流は、単にカメラ市場を縮小させているだけではなく、家族の思い出そのものを、その金銭面だけ商業的に絡め取って、掃き捨てているのである。そこに、しゃしゃり出る父兄が邪魔だからと禁止する学校側が結果として関与してしまうというのは、道徳的・情緒的にはどうなのか。決して、褒められることではないように思えるのだが、どうだろうか。

将来のための落としどころを

こうした時流も、「合成の誤謬」の一つなのかも知れない。学校が父兄の撮影を禁止するそれは、正しい。イベントの参加者が自分で撮りようのない写真を撮影販売するのも、正しい。しかし、それが結果として、家族による家族写真を排除したり、写真機材の製造から販売に至るまでの経済に影響したのでは、正しいとばかりは言えなくなる。それはまるで、丸く収まる落としどころに落ちていた「寝た子」が、携帯・スマホによる総カメラマン化で起きてしまったような印象だ。

カメラ製造や写真産業、そして、教育と家庭など、多くの立場や観点が絡んだこの今時の風潮の問題。終点は決して、単純に「禁止して業者に」ではなかろう。今こそ、知恵の出し時・絞り時。間違っても、「監視カメラからの切り出しで済むから、記録する必要はありません」なんてなれの果てが良い人など、いないだろうから。