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Wednesday, October 19, 2005

例え銀塩がなくなっても、フォトグラフという情報伝達術がなくなることはない。そこで思うのは、「写真」から「光画」へ、という転換だ。かつて、フォトグラフには光画という訳もあった。私には、時として写真よりむしろ、このほうが相応しいように思える。ライティング、そしてフォトグラフにある光 ─ それこそ…
この映像・画像の分野で最も大事な技の対象の一つなのだし、銀塩がCCDやCMOSに変わっても変わらない、フォトグラフの根幹なのだ。

日本では、この「光」という要素が忘れられてるように感じる。例えば、アマチュア対象の写真店の店頭に、クリップオンのストロボはあってもパラソルやディフューザーが置かれていないことにも、その証を見ることができる。アメリカで、ちょっと凝った写真店に必ずライティング機材が並んでいるのを見ると、明かりを工夫することが写真撮影の第一歩なのに、日本では、それが忘れ去られている気がしてしまう。製品が全くないわけではない。Kenkoのカタログなど見ていても、あれこれと工夫のできる道具が一杯掲載されている。ただ、悔しいことに、それらは店頭には、滅多にない。プロだけがライティングを操っていれば良いのだろうか。「手品のタネは非売品」ということなのか。

百歩譲って、それが専門技術・知識を要するライティング機材ではなく、ただのクリップオンストロボだったらどうだろうか。キャッチライトとバウンスライトを一台のクリップオンストロボで同時にこなせる、発光部が二つあるのはドイツのMets(日本ではマミヤOP扱い)。メカブリッツは10年以上愛用しているが、上下左右どちらにもバウンスするように動かせて、なおかつ発光部が二つあるなどというストロボは未だ、他に類がない。イギリスのベッカムデジタルはユニークな面光源ストロボを、これまた手軽なクリップオンストロボとして製造販売しているが、これも然り。一方、それらのように光を工夫するような製品は、日本製では見当たらない。ひたすら強い明かりを当ててやれば良いとでも思っているかのように、ガイドナンバーだけが大きくなって、クリップオンストロボでもGN50を上回るが、バウンスができても、クビは一方にしか振れないものが多い。また、面光源化するアクセサリはあるけれど、最初から面光源を考慮したような、美しい写真を得るための工夫のある製品ではない。つまり、光で写すのだ、という最初のとっかかりのところの意気込みが今ひとつ薄いように感じる。

こうしたシャッター以前のことは、フォト文化というような奥の深さにも大いに関連することだと思う。そこが成熟するかどうかは、今後にかかっているのだろう。携帯電話にまでデジカメ機能がついたのだから、撮る楽しさの部分は十分広がっているのだと思う。あとは、そこからさらに発展して行くだけ、なのだけれど。

さて、あれこれ語ってきたが、今回、銀塩用のハッセルブラッドという一つの象徴的な機材を手放したことで、私のフォトライフも、時代の分水嶺を完全に超えたように思う。思うが、それはフォトグラフから離れることでは、全くない。むしろ、フィルムに代えて光子に対してより鋭敏なデジタルの感光素子を得たことで、光で描き、描かれた瞬間を切り取る作業は、より光に近づいたようにすら思う。

そして、私が目指すフォトグラフの最大の課題は、銀塩だろうとデジタルだろうと、或は白黒だろうがカラーだろうが、そんなこととは無関係に、見る人の心に焼き付き、記憶から消えないフォトグラフを撮ることだ。それを私は「ストロング・フォトグラフ」と呼んでいる。例えば、それがボロボロの新聞紙の一辺になって風に吹かれ、ベンチでたたずんでいる人の足許へ飛んできたとしたら、そこにあるフォトグラフから目が離れず思わず手が伸びるような。例えば、それがゴミ箱に入っている紙くずの山からのぞいていて、目にした人が引っ張りだしてみようとするような。例えば、そのフォトグラフが載った紙くずが風に吹かれて通勤の足許を舞っていった瞬間に、目にしたまま心に焼き付いて離れないような、そんなフォトグラフだ。

私が好きなフォトグラファーの幾つかの作品も、そんな強さを持っているから…

[了]