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Tuesday, October 18, 2005

市場規模や環境を問題にすれば、今の状況は銀塩に不利だと述べてきたが、では、クオリティの面ではどうだろうか。

プリンタ自体、まだまだドッグイヤーの勢いで改善が進んでいる。プリントアウトを壁に飾って実験しているが、退色の心配も、今ではもう「ない」と言って良いだろう。これがもっと美しくなって行くのなら、やがて…
後述するかつて大谷氏の事務所で拝見した超越した美しさが、デジタルにおいて普通になる日が、遠からずやってくるだろう。デジタル撮影機材と印刷機材の成長は、銀塩写真を完全に葬ってしまうだろうか。

足るを知るべし ─ 雑誌編集に携わっていたころ、写植か、プリンタ出力かでもめていた頃に編集部で出した結論である。雑誌の読者が買うのは一文字一文字のカーブの美しさでなどはなく、その文字列で表された情報なのだ、ということで割り切ろうとしたのだった。この概念を写真に当てはめると、印刷結果として必要とされるサイズと画質、つまり用途目的に対して、送り込む写真にどこまで高画質が必要なのか、ということになる。雑誌もデジタル化されている今日、銀塩でなくては足りない条件が、果たしてどれほどあるだろうか。

写真学校の同級生だった家内の師事した写真家、大谷信氏が、銀塩カラーポジの限界に挑戦したことがある。自家現像で、E6処理の頂点を探ったのだ。フィルムは8×10で、雑誌一面ベタサイズで載ることになるその写真は、ポジフィルムの美しさの頂点と言って良い仕上がりだった。今のデジタルの仕上がりは、こうした特殊な条件で得られる優れた画像にはまだ及ばない。だから、まだまだ銀塩という論は、ある意味、まだ正しい。

だが、では普段我々が利用するプロラボの仕上がりがそこまで行っているかというと、残念ながら、採算に合う数量を処理する以上、求めるほうが無理というもの。まして、下手なラボのプリントは、今日のプリンタで印刷できるデジタルの美しさとは、全く比較にならない。

つまり、最高の銀塩はデジタルを凌駕し得るが、最高の銀塩を日常的に得るのには困難が伴う。しかも、日常的な我々の用途が事足りていることを考えあわせれば、その最高のクオリティには、用途が必要とする次元を超えてしまったオーバークオリティであるケースがある、ということになる。過ぎたるは及ばざるがごとし、だ。

では、現像というステップを除いたとして、オーバークオリティを承知で最高のものを求め続けるのは可能だろうか。それは、4×5や8×10の機材で全ての撮影をこなす ─ つまり、スピグラ全盛の昔へ戻るようなもの。不可能ではないだろうが、おおよそ、現実味はなかろう。とすれば、銀塩で撮影したところで、印刷する前にスキャナーを経てデジタイズされるのだから、クオリティはスキャナーに左右される。そのとき、オリジナルを拡大するからには、オリジナルの持っていない微細な情報は何らかのロジックで補完される。8×10のベタで印刷するのでもない限り、この補完は避けられない。だから、特に巨大なポスターの用途でもない限り、大半の銀塩とデジタルは既にクオリティでイーブン。或は、(1)で述べたキャノンの資料にある証拠からすれば、銀塩をとっくに凌いでいる。

先端技術が銀塩の改善とデジタルの改善のどちらにおいて優位に働いて行くか、という比較もある。近代技術の発展に軍需は不可欠だった。写真には諜報活動というニーズがあり、スパイ衛星で撮影するための高解像度フィルムなどが、その例だ。昔のようにフィルムの回収をやっていては今の時代に間に合うわけもなく、自ずと、デジタル撮影された画像を衛星から地上へ送信させているのだから、かのスパイ用高解像度フィルムのレベルですらも、デジタルが取って代わり得るところに来ているはずだ。

まして明日以後のこととなれば、クオリティで優れ得る可能性として、明らかにデジタルに分があると思うのだ。