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Monday, October 17, 2005

情報がことごとくデジタル化される中で、映像・画像だけが例外であるなどということはあり得ない。芸術だろうが何だろうが、映像・画像は、何らかの情報を「伝える」ために存在する。だから、作り出すにあたってそれが伝えるのに適した技法へとシフトするのは、極めて自然な流れだ。むろん、銀塩でこそ表現できるものもあるだろうし、その場合は、銀塩を使うのが正しい選択だ。

しかし…
銀塩にはもう一つ、どうしてもこの時代にあって看過できない問題がある。環境問題だ。銀塩写真の処理段階には、薬剤の流出と上水の大量利用が伴う。

まだ暗室用薬品の処理などに世の中がうるさくない頃でも、自然界に存在しない薬剤を、いかに希釈しようと、下水道や自然へ放水して良いのかという後ろめたさは、費用の問題と負けず劣らず、感じ続けてきた。それを思い詰めて行くと、銀塩で暗室趣味などというのがはばかられる。デジタルが製造段階で汚染しないわけではないから同じだという論もあるが、集中して大量に処理されるのと、分散して各個において処理するのとでは、対処のレベルが違う。うちの暗室だって、薬品用の浄化槽なんて設備は望むべくもなく、廃液の処理は業者依頼になる。

決して、業者がキチンと処理していることを疑うわけではないが、こうしたことも考えると、いよいよ銀塩から遠のいてしまう。それに、芸術性を犠牲にしてバライタ印画紙を避けたとしても、水洗にはやはり相当量の水が要る。それも、この、飲料水が金よりも高くなろうかという時代に、だ。

パソコンで処理してプリンタから出てくる画像が暗室で作業したものより優れて見えれば尚更だが、いいとこ行っているという程度の頃でも、手軽さは十分に魅力だった。今や、それは目を見張るような出力結果になっている。

必要な情報が届かないほど不鮮明な画像では困るけれど、情報がちゃんと届くのであれば、環境を犠牲にしてまで銀塩に執着することを正当化するのは難しい。少なくとも、個人の趣味の勝手で自然環境を汚染することを許容するのは、難しかろう。今の地球上には、飲料水がなくて死んで行く子供たちがいるというのに、写真を仕上げ保存性を得るために水道の蛇口を開けっ放しにする気には、私はなれない。