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Friday, August 21, 2009

Twitterが話題になってから、もう結構な時間が経った。既にTwitterの存在そのものは新しいという気がしないのだから、ITの世界の時間は本当に素早く駆け抜けている。一方、巷は選挙一色。民主が300議席越の勢いと日経一面。未だにインターネットの選挙利用を認めない総務省の態度は、ここまでくると、もはや石頭を通り過ぎて全身化石のようだ。Twitterをもし…

選挙シーンで利用すると、どうなるのだろう。政治というフィールドで括ると、 ポリッターにあるように既に結構な数の政治家がつぶやきだしているのが分かる。むろん、選挙期間中は御法度で、候補のみならず政党のつぶやきも今は、化石総務省のせいでいずこも封印中だ。

総務省は利用できない議員(主に高齢議員か)に配慮したのではないかと思われるフシが多々あるが、IT国家なんて言っていながら、使えない、或いは使えるスタッフを抱えられない議員を有権者が選ぶというそのものが、先ずオカシイ。白川勝彦氏が音声で情報提供したのが2001年。音なら良くて文字情報は駄目なんて、誰が聞いたって阿保らしい解釈だが、8年を経て電子政府だとか言いながら、まだこの解釈が変わらんという体たらくだ。もっとも、もしTwitterが本当に音声のボヤキだったら、選挙にも使えるということになるのだけれど、うっとぉしそうで、聞きたかぁないあぁ…。

カリスマ増幅媒体

もし、Twitterが選挙に使えるようだと、どうなるのだろうか。前衆議院議員の逢坂誠二氏が、さる6月17日に国会での党首討論の模様を中継したのは記憶に新しいが、立ち会い演説会から要点をアップしたり、BLOGなどでの情報アップを告知するといった用途は、誰でもが思いつく定石。実際に使われ出せば、もっとユニークな使いこなしも出てきそうだ。例えば、「○○で演説中。人が少ない。さびしいけど、やるっきゃない」なんて上げると、誰かが駆けつけてくれる…かも知れない。「スタッフでお疲れ様会。○○の縄のれん」とやれば、興味のある有権者が集って急遽ミニ集会のようになったり…しないって誰が言える。つまりは、紙の上、Web上などで提供している情報とはひと味もふた味も違う、生きた生身の声に近いところにあるのがTwitterのつぶやきなのだから、やり方も、つぶやきへのリアクションも、時空間軸上と物理距離を超えてリアルタイムに広がることになる。つぶやく側は、うっかり本当のボヤキで口を滑らせないよにしないと偉いことになりそうだ。

つぶやき手の素顔がその時々の瞬間芸よろしく垣間見えるのだから、熱狂的なファン・信者といった類の人にとってはたまらない。オバマ大統領のそれも、カリスマを増幅したに違いない。言ってみれば、Twitterはブログよりもっと等身大に近いのだろうと思う。ならば、政治に利用しない手はないのだし、ある事象へのその人なりの反応を時々につぶやくのは、有権者にとっても、より素顔に近い政治家を知る、良い手立てになる。下らんつぶやきは無視されるなどのネガティブ面もブログに似ている。下手なつぶやきで足許をすくわれる危険性は、文字数が限られることによる誤読の可能性と併せて、冷静に推敲できるブログよりもむしろ高いように思う。

ワンフレーズポリティクス・ツール

Twitterはつまるところ、小泉劇場ワンフレーズポリティクスタイプのネット版ツールと呼べるかも。RTでつぶやきがさざなみのように広がる効果も無視できず、重大なつぶやきは、想像を超えた広がりを見せるだろう。但し、文字数の相当に少ないつぶやきでないと、尻切れになる。それを考えてつぶやくとあれば、ますますワンフレーズポリティクス・ツールだ。

無論、Twitterだけで物事が完結するわけではなく、そのつぶやきが出る背景などの情報を、聞き手は先に知っておくか、つぶやきを受けて調べるなどすることになる。まぁ知らずにほったらかせる人もあるだろうが、少なくとも私は、気になったら調べずにはいられないたちだから、調べる。風景の見え方が予備知識によって違うように、つぶやきも、予備知識や関連知識によって聞こえ方が違うわけだ。だから、ワンフレーズポリティクス・ツールとしての成否は、背景情報の普及度と共感度、或いは反発度によるだろう。

反発が多くても反応は大きく、しかし最初のきっかけが反発でも、それが考えるきっかけとなって宗旨替えということだって、十分あり得るし、それを見込んだ確信犯も出てきそう……う〜ん、どうも使えるようになったら相当、世の中ブツブツが重なって喧しくなりそうだ。

PubSubHubbub

ITの世界の物事の進展速度は実に速く、まだまだ実装も少なくバージョン0.1のドラフト版の段階だそうだが、既に、更に新しいPubSubHubbub(パブサブハブバブ)なる新しいプロトコルが出現している。Twitterがつぶやきの瞬間芸なのに対し、これはある程度推敲され編集された情報の存在を迅速に告知し得ることから、既存のブログやWebページにとっては、Twitterがもたらしている即時性を取り込める一方、発信側にとっては、物事のトリガーからのタイムラグがシビアに測られ、ともすれば情報発信に追い立てられる感覚が伴うことになる。

新聞は朝夕締切りまで、週刊はもっと、月刊はさらに掘り下げてといった出版報道の棲み分けにも似た差別化は、情報のありようや質とタイムラグの相関でwww上でも成立するのだが、PubSubHubbubは、そうした傾向に拍車をかけるプロトコルなのかも知れない。

失いたくない「時間」

いずれにしても、世の中は既にインターネットという通信インフラの存在が前提で進んでいる。未だに選挙に使えないという国がGDPで中国に抜かれるのに、何の不思議もなかろう。

ところで、ふと思ったのだが、Twitterの文字数制限は、和歌や俳句の制約に通じるところがないだろうか。ふぅむ…ちょっと意識してつぶやいてみよぉか…「お願いします 町から響くうぐいすに オーシツクツク 里山の蝉」。情報の入れ物が変わり、その見え方が変わっても、人の営みは変わらない。ただ、そのテンポは恐ろしく早くなった。それはそれで、限られた人生という短い時間を有意義にする、有り難いこと。だが、願わくば、推敲したり熟考したりする時間だけは、なくしたくないものである。