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Monday, January 11, 2016

今日、21世紀も16年が経ってようやく、自動車は衝突回避装置を持ち始めた。私も、昨年末に自動車を変えた。18年も持ち続けてきたMGFを手放し、シトロエン・C4ピカソにしたのだ。

なぜ四輪駆動車、クロスカントリー車じゃないのか… それは、これならば、というマニュアルミッションのクリーンディーゼル四駆がないことが最大の理由だが、「SUVが世界を轢きつぶす―世界一危険なクルマが売れるわけ」という本を読んでしまったこともある。ラダーフレームを使った地上高の高い車は、側方から乗用車に衝突した際に相手側乗員を殺傷する率が高いという指摘を基本に、枯れた技術で製造できて儲かる上に、トラック枠なので燃費制限をかわせるというメーカーの利益至上主義的な姿勢を叩いた本で、そこまで言われると、さすがに躊躇してしまう。


四輪が駆動すれば、走破力は高まる。燃料消費率は若干悪くはなるが、様々な悪天候や悪路といった条件では、その安全な、安定した走行性能や働きぶりが役立つ。だから、それが必要となる業務などでは必須だし、広く一般的に考えても、備わっていて困る機能ではない。EV化すればなおさらで、低速からトルクを発生するその特性は、オフロード向きですらある。

しかし、一方でフランス車には、これといった四輪駆動車が存在しなかった歴史がある。なぜか。サスペンションや、シトロエン・メアリのような超軽量の車重がその回答だと推測しているが、結論を出すにはまだ、私自身勉強不足だし、調査不足だ。油圧式ではなくなったとはいえ、ピカソがそうした設計上の思想の片鱗でも教えてくれるのではないかと期待しているのだが、どうなることやら。(*メアリには4X4モデルが存在したが、短命に終わった)

シトロエン・ピカソには自動駐車が備わり、周囲の、人を含むあらゆる障害物をドライバーに警告する。備わっていないのは自動運転だけじゃないか、と錯覚するほどだ。衝突回避ブレーキを皮切りに、他メーカーも続々、様々な装置を実装しだした。自動運転が叶う日も、そう遠くないだろう。人間は、うっかり間違える ─ 時には、アクセルとブレーキすらも。それが人命に関わるミスになり得るなら、人間から操縦する人馬一体の喜びが取り上げられるのも、已むを得ない。限られたエリアでの操縦はそれでも、楽しみとして残って行くのだろうか。それとも、それもエネルギーの無駄として禁じられるのだろうか。

一つ確実なのは、誰も、殺人のリスクを背負ってまで運転し続けようとは思わないということだ。そんな安全性の観点から考えれば、自動運転車でなければ責任はドライバーに転嫁しますと法令や保険ポリシーが変わった時、全てはオセロゲームのようにドラスティックに変化する。それでも自動運転でない車を選び、運転しようというのは、工業史的にも重要な価値があるなど、その車によほどの付加的な事柄が必要となるとか、或いは、そうなった時点で既にレトロであろう、自分で運転しなくてはいけない車のイベントくらいだろう。

私は長らく、「自動とつくものにはロクなものがない」と思ってきたし、実際にもロクな目に遭っていなかった。だが、T型フォードの誕生から108年を経た今頃になってようやく、自動車は本当の意味での「自動」車へと変わる、その節目を迎えた。人は、好むと好まざるとにかかわらず、日常的な自動車を操る業務を自動車自身に委ねざるを得なくなる。操縦する悦びを、特別な、限られたものと諦めざるを得ないのは、それが人命を左右する「事故リスクと天秤にかけ得る自動運転」という代替の道が開かれるとすれば、自明なのだ。それでも、大量輸送機関によらず、自らいつでもどこへでも自分の意志で移動できる手立てとして、或いは、救急車や消防車といったそれであってこそ果たせる必要がある以上、自動車は存在し続ける。

願わくば、今度はロクデナシでない、本物の自動化を成し遂げて欲しい。もう誰一人、自動車事故で死んだり、その罪を背負ったりしないように。


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