…時代が求めているのはプルであり、プルに値するコンテンツだ。ライブドアが狙ったニッポン放送。大昔、糸井五郎氏やカメ&アンコウのオールナイトニッポンを聞いていた身には懐かしい局なんだけれど、日本ほど、今のネット時代に既存媒体が乗り遅れている先進国はなく、その中でもとりわけラジオでは顕著なように、ずっと思ってきた。
私は、アメリカへ行くと、レンタカーでこれでもかという距離を走るが、同時に、カーラジオを良く聞く。地域の特色が出ることや、タイムリーな情報が得られることもあるが、何より、局ごとに色分けがはっきりしていて、好みの番組を探りやすい。FMならクラシックやジャズといった音楽ジャンルに分けての専門局が多いし、AMでは聴視者参加番組ばかりの局や教育番組の局、特定の宗教の局といった具合で、その細分化がはっきりしている。とあるAM局など、ここ10年来、パソコンの知識についての聴視者参加局だ。ユーザーがWindowsやMacの操作、ネット接続や機器そのものについてなどを電話で問い合わせ、それにその場で回答している。回答者の知識にも驚くが、それで局が成立しているという事実に、ITの普及についての底辺の広さを、渡米して聞く都度感じてきた。
あれは1997年のこと。Mars Passfinderが火星に着陸して画像を送信してきたとき、とあるラジオ局が聴視者参加番組を放送していた。幾つかの町で住民に集まってもらい、火星の映像を見ながら、それについて語り合うものだったが、画像情報はインターネットで補っていて、常にそのURLを流していた。学者の解説に図がある場合は、その図もURLを知らせるといった具合だ。これを聞きながら私は、ラジオという媒体とインターネットは、実に融和性に富んでいると感じたものだ。まだ日本では放送でURLを聞くことすら珍しい頃のことだから、その違いが分かるだろう(首相はITをイットって読んだしね)。
今や、インターネットラジオは国境を越えて世界中に音楽などを配信している。音楽をバックで流しながら仕事をするには、インターネットラジオは実に具合が良い。なぜなら、アメリカの局よろしくジャンルが決まっているから。今の日本のラジオが聞くに耐えないのは、公共性という偶像のもとに対象幅が広がりすぎていて、その日その時の自分が受信したい情報となかなかマッチしないから、という原因もあるのではないだろうか。
既存の媒体とインターネットというテーマで物事が論じられるとき、そこで最初に前提としなくてはいけないことが違うと、論は永久に虚しいままに進む。朝まで生テレビの論議も、その落とし穴に落ちていた。その、最初に前提とすべき事とは「プッシュかプルか」だ。メディアをプッシュのためのものとして考えると、どこにでも土足で上がり込むのが放送媒体の素性だということになる。私たちは、もう永らくお茶の間のTVという、土足で上がることを我々が許してしまった媒体によって、プッシュの洗礼を受けてきた。しかし、時代が変わり、CSなどが登場したおかげで、ここ10年ほどは最低限選択肢を増やすことができていた。そして、これからいよいよ全てがプルになる ─ 私たちはその変わり目にいるのだ。
オンディマンドで情報が取り出せるということや、録画で広告をカットして番組を視聴できるといったことは、すべからくプル機能を提供するデバイスが間に噛んでのご利益だ。プッシュしたい側からすれば、大いに困ったこと。だから、プッシュで永々と利益を得てきたところは、この流れに必死で抵抗する。フジテレビの抵抗もまさにこれだし、ニッポン放送が抵抗したのも、8年前のアメリカの火星着陸放送のようなことすら未だにできない局らしい抵抗ではないか。
例えば、セールス電話は顧客対象の時間に土足で上がり込むセールストークであり、迷惑千万だということに、そうした業務に従事している方以外は異論はないだろう。無用の長物や怪しげな金融派生商品、理解不能の電話契約(安くなるというが、実はたいして変わらない)を売り込まれるなどするわけだが、DVD映画を見ているときなど、絶対に受けたくない。こうした感情が、留守電を利用して電話を直接取らないという挙動を常識にしつつある。番号表示や着信拒否も然り。
EmailのSPAMも土足で上がり込む迷惑千万なものの一つだし、ブラウザのポップアップウィンドウでの広告もリソースイーターの迷惑な存在だ。だから、フィルタ機能に優れたメーラーや広告を表示させない設定ができるブラウザの人気は必然的に、短期間で存外に普及することになる(FireFoxの普及の様子がそれを示している)。これらインターネット上の強制送信広告は、プルの世界に強引にプッシュの概念を持ち込んだもので、迷惑でないわけがない。
情報媒体はすべからくプルの時代になる。そこでプッシュ媒体とは、言葉は悪いが「強姦魔」のような存在だと例えてみたら、どうだろう。見たくもないやかましい広告を繰り返し見せられたのでは、選択肢の多いCSでもたまらない。私ゃついに最近、ヒアリングセンスを保つためにやっていたCNN流しっぱなしを断念して多少はマシなBBCにしているけれど、有料で受信した上に受信者が拒否感を覚えるような広告を流すなど、言語道断。あの保険会社とは絶対に契約しないゾ、と心に誓う。他にも、脳みそが腐りそうな気がしてくる番組や広告は、決して少なくない。
では、強姦魔のようなプッシュ媒体がどうしてはびこったのか。これこそ、都市に人が集中する中で為政者が大衆を牛耳るのに最高の手段だったからだ。人々を高層のセルに押し込め、大衆の横のつながりを断ち、テレビを与えて中流意識に浸らせておけば、大衆は為政者に反旗をひるがえしたりはしない。(住むための都市─ジョナサン・ラバン著 高島平吾訳 晶文社刊 ISBN4-7949-5892-7 C0036 P3200E)
「うちも隣もおんなじね〜♪」のサザエさんである。同じテレビの番組でお気に入り反体制コメンテーターが論を述べるのに任せてガス抜きすれば完璧。だから、プッシュで世を牛耳ってきた人々はプルの世の中になると大変困るわけだ。CSから強引に国会TVを追い出しておいて、エロ映画に大量のチャンネルを許可しながら、「公共の電波」「公共性」の大義名分を盾にデジタル化でさらに充実した「プッシュ」を進めようとする官僚のスケベ根性が透けて見えるではないか。こうした罠にはまって自ら人格を落として喜んでいる大衆こそ、為政者の思うツボなのではないかなぁ。
一方で、ではプルだけになれば良いのかといえば、違う。新聞紙面を例にとれば、オンデマンドの新聞では、常識的に知っておくべき出来事が目に入らない恐れがある。好みのジャンルだけに絞っていては困る面もあるわけだ。ここで、新聞は各紙が夫々の論調をもって成立するもので、一紙に公平中立を求めるのは無理があるという問題が併存する。具体像により鮮明に迫りたければ、論調の違う新聞を幾紙か読むと良い。誰かにとって正しくても誰かには間違い、ということが、この世の中にはいっぱいある。どうやって情報を受信してそれを自分に役立てるか ─ これは、今からの時代を生きるにあたって求められる能力の一つだろう。プッシュの媒体を複数寄せ集め、真実に近い情報を受信者側が事後構築でプルする、という構図だろうか。もっとも、新聞は買うなり契約するなりという自分のプル行動が先にあり、いつでも読め、放置でき、保存できるから、ある意味プルでもある。が、テレビやラジオはその時だけだから、プッシュする側に受信者が全面降伏しないと情報が得られない。この差はいかにも大きい。
さて、こうしてプッシュとプルという区分で切り分けてしまえば、フジテレビ v.s. ライブドアを論じる上での問題も見えてくる。それは、プッシュで利益を得続けようと既得権益にしがみつく官僚やメディア企業と、いかにすればプルして貰えるかに悩む新出メディア企業の戦いなのだ。プル媒体もプッシュの視聴率競争のような愚を侵せば、そう長くは続くまい。プルするに足る情報と、そのプルさせる最初のきっかけ作り。わざわざプルするに足るコンテンツがいかに難しいかは、映画制作とその興行成績に例えてみても良いだろう。現代人に最も渇望されているのは時間だと思うが、そのなけなしの時間と虎の子の両方を出してプルするほどのコンテンツ、簡単にできるわけがないじゃないか。フジテレビを我がモノにしたところで、フジテレビのコンテンツがライブドアサイトにあったとしても、ライブドアポータルのアクセスは本当に上がるのかナ? そんなものが目的でライブドアは大枚をはたき続けたのだろうか??
ライブドアがニッポン放送と組んで、前述のアメリカの火星探査衛星番組のように立体的な番組を構成したりするようなら、とりあえず一面では8年前のアメリカに近いラジオになるし、流しっぱなしでも邪魔にならない番組編成を考えたりすれば、かなりのリスナーを得ることができるかも知れない。また、インターネットを利用することで更に、ラジオ番組の文字化も可能になる。既成概念のラジオでは不可能だった聴けない人にも、情報が届けられるし、聴くだけでは流れ去ってしまう情報を後で取り出して確認することも可能になる(同時に、そうは言ってないとお茶を濁して言い逃れることもできなくなるのだが)。
私はここで、電波免許とそれに依った放送局は既得権益という滅び行くザウルスなのに対し、番組制作能力を持つ価値は段違いで大きく、将来性に満ちていると指摘したい。ニッポン放送は、ライブドアが持っているであろうあらゆるインターネット資源を得ることで、自社の日本語版組をリアルタイムで世界中に配信できる基礎を得ることになるのだ。リスナーは電波の届く範囲にしかいない、という概念は過去のもの。出力を上げたりしなくても、配信帯域さえ確保すれば相当量の番組を常時、プル形式で世界中に配信できる。例えば、ニュース解説番組をポッドキャスティングで流すなんてのは、どうだろう。
そうした意味を両者とも深く考えて欲しいものだ。今や、携帯電話でインターネットラジオを聞いたり、無線インターネット接続の携帯ラジオがあったっておかしくない。ことはラジオにとどまらず、テレビも携帯で視聴できる時代なのだ。もはや電波という有限資源の物理的な制約は、考慮に値しない。一方で、プルするに足りる情報の信憑性や、プルするに足るコンテンツ品質という角度から考えたとき、番組制作能力が一朝一夕に備わらないものだという大問題があることは明らかだ。本当に一番重要なのは、そうしたプルに値する番組を「制作する能力のある人」なのだ。
Posted by nankyokuguma at 19:16:37. Filed under: General
